恒例、新巻きを注文。鮭、基本的にサイズの大きい方が美味です。ただし高価。その間のバランスで、今年は3キロほどのものを頼みました。ついでに小物もいろいろ。
で、例年だと「ご注文、承りました」という電話ががくる。女性の声だったり、ご主人ふうの声だったり。手紙のこともあったかな。ていねいなことですが、この店の特徴ですね。塩加減なんかもけっこう細かく聞いてくれる。工場のオバサン(若いかも)が手のひらで粗塩をウロコの逆目に擦りこむんでしょう。
美味しい。けれども値が高い。思ったより(少しではなく、けっこう)高価。もう何十年にもなります。たまに贅沢して一口筋子なんかも頼んで、これは食べるのが勿体ないくらい。
というふうだったのですが、今年はいっかな「承りました」がない。不安になってきます。最近の郵便事情がナンなんで、もしや届いていないとか。次からはネット注文オンリーに切り替えたほうがいいのかなあ(実はネットで頼んだこともある)。
しばらくガマンして、ついに電話してみました。ザッと話してこっちの電話番号を告げるとすぐ了解。はい、承っています。ありがとうございます。今年からご連絡はさしあげないことになったんですよ。
あらら。ようするに経費節減か。残念だなあ。
そういえば何年か前には、愛用の廉価な袋詰めライン商品が廃盤になったっけ。手がかかるわりには利益が薄かったんだろうな。会社規模は大きくなっているみたいで、遊びが消えてシビアに合理的になっていく。
大昔、初めて新巻きを頼んだときかな、この店流の切り身のつくり方を紹介した図がはいっていました。どこの店でにもある短冊切りではなく、いわばブロック切り(※)。図みたいなイメージです。こうやってザックリ切って、それぞれをラップして冷凍。で、ブロックひとつづつ解凍して、半身にして分厚いのを焼く。
ふつうの短冊切りにくらべると身が厚いので、しっとり焼けます。やたらはやった昔風にいうと「ジューシー!」。なんか豪華。もちろん一人で一切れは無理なので、もっと小さく切り分けて焼いていいです。どっちにしても「薄い短冊」ではなく「ゴロっとしたブロック」なのが特徴ですね。美味しいですよ。
※ズドンと輪切りにして冷凍して(背と腹を分けておいたかな)、後々で半身だった気がする。ちょとオボロ。奥さんに聞けばいいんだけど。
原宿の美術館で「広重ブルー」展。ベロ藍がテーマのようで、なんとなく面白そうだなーと。奥さんに話したら行くという。その美術館も前にいったことがあるらしい。
なんせ原宿です。平日とはいえ、ごった返しているんだろな。今風のしゃれたランチを食べる気もないので、事前にそば屋を検索。うん、想像通り、あんまりない。それでも2軒ほどチェックして、だいたいの場所を確認。行く気はないけど洋風そば屋なんてのもあった。
で、肝心の展覧会。うーん、悪くはないんですが、とにかく混んでいました。ゆっくり眺めるというふうにはいかない。一階、二階、ザーッと眺めて退散です。空いてればまた雰囲気が違ったんだろうけど。
で、そば屋。なんせ表参道。20年ぶりくらいかなぁ。人が多すぎる。若い人であふれているし、ガイジンさんもやけに多い。人込みを縫いながら、このへんにあるはず・・と歩いても、発見できない。そもそも目も悪いしね。表示の店名がすぐには読めない。区画を一周して諦めました。
降参です。調べるんなら完全きっちり、ビルの名前まで調べておかないと無意味。なんとかなるだろ・・がもう通じない。反省点だなあ。仕方なく適当にランチに入った店でも、帰りのレジでごたごた手間取ったし。レジで現金渡したら、実は手前に現金投入口があるセルフ方式で二重手間。おまけに1枚のつもりで2枚わたした。(※)。ちょっと落ち込みです。ほんと、しっかり反省しろよ。
(別件ですが、先日はスーパーで初めてPayPayを使いました。初体験。ちょっとドキドキだったけど)
※トシのせいで指が乾燥して滑る。1枚のつもりで財布から2枚抜いてた。恥ずかしいなあ。
河出書房新社★★★
タイトルからすると一時期氾濫した「小説作法」の類かと想像しそうですが、ま、思い切ってスカしたなかにし礼の半生紀(※)、あるいは成功物語、あるいは本当に「作詩のノウハウ」。
キャッチは「天才作詩家が初めて説き明かす、作詩術の奥義と秘儀」です。
・・・などどは書きましたが、なかなか面白い。で、たしかに天才ではあっただろうけど、天才は天才なりに苦労していた。曲テーマを与えられてから実際に書くまで苦悶、頭の中のいろいろ、グチャグチャ、推移、自問自答、推敲。具体的でいいです。そうか、そういうふうに考えて詩になるのか(※)。
ただし、その「流れ」が本当かどうかはわからない。なにしろ天才なかにし礼、たぶん見栄もはったりも存分にあるはず。それを割り引いてもけっこう楽しめます。書き出された数多い自作歌詞を眺めるだけでも、嬉しい。
※半生どころか、これ、新聞連載だったようでまだ若い。たぶん40歳前後じゃなかったのかな。
※本人は「作詩家」。詩と詞。どうして芸能マスコミは「作詞家」などど軽視するんだろうとご不満です。
筑摩書房★★
永井荷風のこと、なーんにも知らないです。四畳半襖の下張り騒動とか、浅草のロック座の踊り子たちを愛したこととか。ベレーかぶってコウモリ傘持った写真もたぶん見たことかある。その程度。
といわけでよく知らない荷風のことを、半藤一利が例の講談座談ふうに解説。ま、サーッと読んで納得するような本です。
読了。なるほど。荷風がいつも肌身離さなかった手提げ袋、やはり通帳やらなんやら、全財産がはいっていたんですね。それを置き忘れたことがあったらしい。拾ったやつが中を見たら現金はほとんどないんで、チェッと舌打ちして捨てた。捨てたのを若い米兵がひろった。
落とし主は有名な小説家で、通帳の額も二千万円だったかな。米兵は、たっぷり謝礼がもらえるだろうと期待していたらしい。で、荷風さんは失くすとすぐ銀行に届けを出していた。まったく心配していなかった。そういう人らしいです。かなり合理主義者。
それなのに(大嫌いな)警察から呼び出しをくらい、立ち会った米兵から手提げ袋を手渡され、謝礼(五千円)も払う羽目になった。たぶん、あんまり気分はよくなかったんでしょうが、でもそうしたセレモニーをいちおう尊重するのも荷風だった。
いろいろエピソードがあります。総じてつきあいにくい人ですね。ヘンクツ。わがまま。戦後すぐ市川で従兄弟の杵屋五叟の家に住むんですが、あいにくラジオの音と三味線が大嫌いだった。うるさくて書けないぞ・・と怒る(※)。向こうの部屋で三味線が始まると火箸を木魚みたいにカンカン叩いて無言(有音)の抗議をする。先方さんも閉口する。ときどきは靴はいたまま家の中を歩く。同居している夫婦の寝室の障子には、いつも小さく穴があいている。ふさいでも、また穴ができている。
そうそう。関西のどこか、知人宅に疎開していたときは、入浴するにも全財産の入った袋を風呂場にもちこむのが常だった。「この家の人間も信用しないんだ・・」と呆れられた。
ま、そいう人だったらしい。
意外だったこと。顔が長くて、若いころはそこそこ美男子だったのかな、とは思っていましたが、実は身長180センチ。足は27センチだったか。大男。合う靴がなかなか買えないのでゲタを履いていた。人間、こうした身長とか体重とかで、あるていどイメージがつくれます。そうか、良家に育って渡仏して、江戸文学を愛して高名作家で女が大好き。で、戦後も人気があって全集も出版。金はザクザクはいってきたが、屈託して生きて、毎日浅草に通った。
権威が嫌い。しかし抵抗はしない。文化勲章も文句いわず嬉しそうな挨拶もする。でももらった勲章はたぶんそのへに放り投げてある。浅草のストリッパーたちとよく遊んだしご馳走もしてやった。でも自分から誘った踊り子以外の払いは拒否する(※)。不動の一線があったんでしょうね。うるさい、ガンコなケチ爺。文化勲章のあとも「へぇー、センセ、天皇陛下にあったのぉ」などと踊り子に言われると不機嫌になる。なんにも予備知識のないストリッパーが好き。
当然ながら、同時代の作家からの評判もいろいろ。ま、荷風のほうだってたとえば初めて会った小林秀雄を「小林愛雄」と間違って(たぶん故意)記していたり。
いろいろ、めんどうな人だった。
※実はこの当時、ほとんど書いてなんかいない。気がおきなかったんでしょうね。杵屋に居候して三味線嫌いは通らない。
※そっちから押しかけて来たんだから、自分の分は自分で払いなさい。
録画してあった「ゴジラ」を視聴。第一作のゴジラです。主演は宝田明。恥ずかしいような美男子ですね。お嬢様役の人はなかかわからなかったけど、クレジットみたら河内桃子でした。当時の女優さんらしくワンピース姿のウェストが細い。
なんとなく見たことあるはずと思いこんでいましたが、実際には初見。なにしろ昭和29 (1954年)の公開。うん、自分はまだ小学校の低学年だ。映画館なんかに行けるはずがない。
で、最後は酸素のナントカを応用した新兵器オキシなんとかかんとかでゴジラは絶命する。ん? なんか火口に落ちて死んだんじゃなかったっけ。はて、とこれも調べてみたら昭和59年 (1984年)でした、第16作。通称が「ゴジラ84」。三原山にゴジラを誘導して火口に落とす。主演はたぶん田中健。ヒロインは沢口靖子。はあ、そういう時代か。
で昭和29年から59年の間はどうだったかというと、たぶん次々と制作・公開した。第2作から15作まで。だんだんゴジラがいいやつになって、つまりは面白くなくなって、その間にモスラとかアンギラスもいたんでしょうね。ザピーナッツが「モスラーやモスラー」と唄う(※)。
ついでですが、この初代ゴジラ、戦後9年だけど自衛隊が出てきます。ちっぽけな戦車も登場するし、オモチャみたいな戦闘機も飛ぶ(※)。ちょっと不思議で年表調べたら、下記のようでした。
経緯、忘れてるなあ。
■昭和24 (1949) 湯川秀樹、ノーベル賞
■昭和25 (1950) 朝鮮戦争(※)。マ元帥の指令で警察予備隊。黒沢明、羅生門
■昭和29 (1954) 第5福竜丸、被災。 自衛隊発足。初代ゴジラ公開
■昭和32 (1957) 南極一次観測。宗谷、オビ号に救出さる
■昭和35 (1960) 全学連国会へ突入。東大生死亡
■昭和39 (1964) 東京オリンピック
■昭和59 (1984) 第16作 通称「ゴジラ84」公開
※ピーナッツがなぜか映画ではきれいに見えたので子供心にびっくりした。
※戦闘機が頭のまわりをぶんぶん飛ぶと、ゴジラはうるさそうで海に退散します。
※子供のころは「朝鮮動乱」でした。マーカーサー、新聞ではいつも「マ元帥」。新聞見出しに記憶があります。日本でいちばん偉かった。
中央公論社★★★
このところ永井路子の奈良ものを続けて読んで、いささか疲労というか飽きた感かあります。 藤原仲麻呂・鑑真の『氷輪』。その前が藤原不比等と蘇我系女帝の元明・元正の抗争『美貌の女帝』。ま、どちらも知らないことばかりで、その意味では面白かったんですが、でも地味です。
それは別として、もっと分厚いのが第5巻『この世をば』です。もちろん道長ですね。舞台は平安だし資料も多くて、エピソードもてんこ盛り。本のボリウムもすごいです。800ページはある。当然、読み終えてはいるんですが、不思議なことに記憶がない。ない。
あ、もちろん少しは覚えています。最初のほうの50ページくらいかな、左大臣家の長女・倫子のところにボーッとした右大臣家の三男坊道長が恋の歌を贈る。うーん、あんなやつはダメだ!と父親の左大臣がいやがる。ま、そのへんだけ。
しかしそのほかの部分、なぜか記憶がスッポリない。不思議です。ほんの半年前に読んだはずなのに・・・。
アホらしいとは承知ながら、また読みなおしてみました。800ページは重いです。膝の上においてもズッシリ。手が疲れてくる。自分で呆れながら、でもなんとか読破しました。初めて読むような気分です。
内容についてもここの感想と同じですね。違いがあるわけがない。で、再読したことを後悔はしていません。面白かったです。
あらためて納得したのは一条天皇と道長の間をせっせと往復した蔵人頭(くろうどのとう)藤原行成のこと(※)。この人の業績というか貢献度はすごかった。平安の政治はこうした優秀な秘書官役や皇太后クラスの女性の権威に負うところが多かったんだ、と永井さんは書いています。従来の研究書ではあまり重要視されてないけど、非常に重要。潤滑油。こうした急所の位置に有能な人がいないと、その政権はふるわない。すぐダメになる。
※蔵人頭。夜中だろうが朝だろうが「伝えよ」と指示あがればすぐ往復する。天皇だって、必要なら寝ないで待機している。平安のエリートたち、遊びも仕事も夜を苦にせずせっせとこなしていたんですね。周辺の女房たちも同様。夜更かしは平気だった。
この前読んだ田辺聖子の『むかしあけぼの』でも、やたら大殿油(おほとなぶら)という言葉が出てきました。灯台。明るかった。みんなせっせと活動していたということなんでしょうね。
中央公論社★★
全集の第一巻におかれたのは「氷輪」。ひょうりん と読むんですかね。小説ではなく、歴史解説というか歴史解釈というか。
鑑真が登場します。あまりにも有名な人ですが、その実、あんまり知られていない。日本に来た。歓迎された。・・で、唐招提寺が建てられた。その程度です。日本でどう迎えられたのか、どんな成果をあげたのか。どう没したのか。
で、想像通りでしたね。大唐からの渡日なんで、もちろん歓迎してもらったようだけど、でも本当のところはかなり温度差があった。『戒』を授けるってのは日本の帰依者が考えるような簡単な「賞状」じゃなかったようで、たしか5年だったか。5年がかりで必死に学んで、ようやくひとつ進級。ちょっと学校に通ってすぐ免状というような安易な代物ではない。少なくとも唐僧たちはそう思っていた。
唐僧たちと日本の僧・政治家の間には根本的な考えの相違があったわけです。
日本側の代表が藤原仲麻呂と東大寺の良弁。良弁ってのは、どこかの田舎で母親が畑仕事をしているすきに、大ワシにさらわれた。ワシはお寺の高い杉の梢に赤ん坊を置き去り。鳴き声を聞きつけて寺のものが救出して、そこで育てる。立派なお坊さんになりました。という話、子供のころに読みました。
で、その良弁はやがて出世して東大寺開山。悪い人ではなかったんでしょうが、原理主義的なことをいいはる唐僧たちにはたぶん迷惑した。日本には日本のやり方があるんです。結果的に「良弁・東大寺」と「鑑真・唐僧」はギクシャクする。
で、政治の世界は藤原仲麻呂。永井さんの見立てでは、日本人には珍しい完璧主義者。鑑真をある程度は庇護していたし、同時に良弁を重用もしていた。で、当時の女帝である孝謙天皇(従姉妹です)をカイライに仕立てて、実質的な仲麻呂王国をつくろうとして、ほとんど完成しかけた。
そこに出現したのが予想外が弓削道鏡です。永井さんの本には、悪人は登場しません。仲麻呂も良弁も道鏡も、ま、ふつうの人間。ずるいことも考えるし、良いこともする。で、たぶん生真面目な道鏡と世間しらずの孝謙天皇が男女の仲になってしまった。中年の恋は激烈です。常識がないんです。どんどん出世させたい。
アホな世間しらずがなにを増長、押し潰してくれようぞ・・とクーデターの計画たてた仲麻呂なんですが、上手の手から水がもれる。意外や意外のハズミで、何も考えていないみたいな孝謙に、仲麻呂勢は連戦連敗。ついに琵琶湖のほとりで敗死。
和気清麻呂がナニしたとか吉備真備がドウしたとか、ま、たいしたことじゃないようです。要するに実力者・仲麻呂が倒れた。アハッハと笑っていた孝謙は重祚して称徳天皇になったけど急逝する。その後は吉備真備の時代になるかな?だったんですが、真備の推した天皇候補(老齢だった)が意外なことに辞退し、結果的にまた藤原一派の時代に戻る。ただしもう長男武智麻呂の「南家」ではなくなりました。
で、ずーっと静かにしていた鑑真は、唐招提寺で没。この唐招提寺、いまの規模で考えると少し違うみたいです。かなり貧しい。小規模。鑑真の彫像を作成するための漆の入手にも苦労したようです。念願の金堂が建てられたのはだいぶたってかららしいです。
ま、そんなふうな本でした。読むのにかなり苦労します。
浮世の義理で、ときどきはスマホでメールを書きます。メールというか、いわゆるSMSですね。ショートメッセージサービス。人に「LINEやってる?」とかよく聞かれますが、LINEって、基本機能はたぶんショートメールですよね。違ってるかもしれませんが、SMS = LINE と勝手に解釈しています。違うのは囲い込み機能の有無、グループ機能があるかないか、かな、たぶん。
ま、そういう次第で,たまには文字を打ちます。ブラウザを立ち上げて、検索することもあります。そうしたとき、困るのが文字の入力方法。
たいていの人は上下左右に指を走らす『フリック入力』みたいです。すごいスピードで打ってる。なるほど、と理屈はわかりましたが、いまさら新規に覚えるのは面倒。それでパソコンと同じ『Qwerty入力』にしています。これなら一応は打ち方を知っているし。
ところが、やってみると非常にストレスです。誤入力。
間違ったキーを押したのなら当然ですが、正しくタッチしても違う文字が出る。わざわざタッチペンを使って正確に、垂直に触れても、隣の文字が出る。早く打つとエラーが増える傾向のようなので、アホらしいけど丁寧に、ゆっくり打つ。それでも、1行に2文字くらいは間違う。精度が足りないんですね。
なんとかならないのかなあ。次に新機種を買うときも、これがあるので幅の狭いスマートなのはダメ。なるべく画面幅が広い(キーボードが大きい)のを選ぶしかない。なんか不本意です。
三連休の終わり。前日に続いて絵に描いたような絶好の秋晴れ。
妻から誘われて、珍しく散歩。といっても隣の駅まで歩いて、そのへんの店を見て帰るだけのことです。風が強いので用心してウインドブレーカーを羽織ったけど、余計だったようで汗ばみます。
駅の近く、何かの機会に食べログで見かけたことのある有名ラーメン店の名前。ただし10人くらいが並んでいる。無理々々。
そこから少し歩いたところの家系ラーメンに入りました。中は一人で切り盛りしているようで、大きな寸胴に少し錆があったり椅子のシートにガムテープ補修があったり。ま、キレイとはいえないけど特に文句もなし。ふつうラーメンのチケットを購入。650円。
濃厚でおいしいスープでした。短く刻んだほうれん草が少し入っていて、これが意外に美味い。大きな炊飯器が置いてあり、みんな自由に飯をよそっている。何杯でも自由らしい。食べ盛りの学生たちは嬉しいだろうなあ。コスパ最高。こういう店、自分の若いころ近くにあったら絶対に通う。
炊飯器の横に「食べ残し厳禁」と書いた紙が貼ってありました。当然ですね。家に帰って、買ったばかりの歩数計をみたら9500歩。よく歩いた。
今年の大河ドラマ「光る君へ」。もちろん不満はいろいろありますが、ま、ガマンの範囲、けっこう楽しみに見ていましたが、うーん、だんだん酷くなる・・。
ついに諦めました。どうして何がなんでも男女の話にしてしまうんだろ。天下の左大臣がなにかというと自分の娘である中宮(彰子)付きの女房(藤式部)を訪問。ちなみに中宮の住まいは藤壺、つまり後宮といってもいいでしょう。そういう宮中の「女性区画」のいわば使用人住居に総理大臣クラスの中年男がやってくる(※)。で、その女房と二人っきり、いつも訳ありげに相談している。やはり問題ですわな。
先日は式部の娘の家に、街で出会ったらしい若い武者が飯をたべに寄っていました。式部の父親はたしか先の越前国司。従五位くらいだったな。立派な貴族です。一介の下っぱ武者が、家の娘に誘われたから「飯を食いにきた」などと屋敷の門をくぐれるものかどうか・・。
ま、こういう「常識」を堂々と無視するのが、立派な脚本家の気負いなんでしょうね。三条天皇の中宮らしい女性(たぶん道長の娘、妍子)が御簾の中からこっそり出てきて、いきなり敦成親王(たぶん)の後ろから迫って「好 き!」とモーションかけたり。あほくさ。ちなみに敦成親王というのは三条天皇の皇子です。つまりは亭主の子供。自分の義理の息子。
だめだ、こりゃ。
※実際には女房たちのところへ、若い貴族なんかよく遊びにきてはいたようです。一種の社交界ですね。各房の仕切りはないも同然なので、誰が誰のところに来ているかは、たぶん公然の秘密。