うーん、みて損するような映画ではなく、けっこう良かったですが、それだけに不満が残ります。
以下はグチグチと愚痴です。重箱の隅をつつくような感想なので、いやな人は読まないでください。
そもそも冲方丁の原作そのものがかなり瑕疵をもっています。囲碁関係のもろもろ、たぶん算術の計算方法のもろもろ(これは想像です)、後半で妙に単純化した朝廷工作のもろもろ、などなど。しかし小説はそうした不備を補ってあまりある魅力を持っています。ストーリーと言い切っていいのかどうか。文体や会話、小さなエピソードの積み重ねなのか、あるいは主人公のキャラ設定そのものなのか。
そのへんは言い切れないのですが、とにかく魅力ある本です。こういうテイストの小説、いままで存在していなかったですよね。
というわけで映画。いい映画だっただけに惜しい。仕方なかったんでしょうが、老中の酒井忠清が省略された。そのため北極出地の命令は保科正之が下します。うーん、そりゃ保科は大物だけど、下っぱに対して公式命令を下すような立場じゃありません。つまり、たんなる行政職の役人じゃないわけです。まるで政界の超大物(たとえば元副首相)が東電の課長を呼びつけて直接命令を下すようなもんです。
※ ん、ちょっと違うか。元副総理が文化庁の小役人に指示するようなものかな。
やっぱりこれはせめて老中とか、寺社奉行とかが言い渡さないといけませんね。ただこういう細かい部分を描くとストーリーが複雑になります。だから避けたのはわかるんですが、でもねぇ・・。
保科正之が命令を下してから、横に包んであった刀を渡すのもへん。こういう些事は、当然ながら控えている小姓役の人がやらないとおかしいです。水戸光圀(当時はまだ光国かな)と二人っきりで食事というのも不思議でした。おまけに後半では激昂した算哲が光圀の背後に立って、なにかわめいてました。うーん。
だいたい映画でもテレビドラマでも、侍女とか小姓とか家来とか、やたら省いてしまう傾向が強いですね。予算もかからないし、いないほうが目移りしなくて、ストーリーがわかりやすい。
そうそう、算哲・道策が将軍の前でいきなり予定にない勝負碁を始めるのも、はて。そりゃ天才英才、真剣勝負をやりたい気持ちはあったと思いますが、それを我慢するのが「お役目、お仕事」というもので、ルールを破っちゃいけません。天皇の前で「空手の型をお見せします」という場面で、両方が本気で蹴りあいを開始するような感じです。
そういう「下っぱのつつしみ、保身感覚、悲しさ」みたいな部分がまったくなかったですね。たかが碁坊主、たかが数学オタク。それでも特殊技能のおかげて安泰におまんま食べていける家の若者が、空気を読まずに「オレはナニナニがしたいんだあ」とわめく。もっと静かに抑えた演技が見たかったなあ。
それから碁の初手をなぜか大上段にふりかぶるのは、そういう様式が当時あったんでしょうか。あれも違和感がありました。少なくとも所作がきれいには見えなかったし、闘志が露骨に見え見えで美しくない。
などなど。やすっぽいテレビ時代劇じゃあるまいし、覆面武士(まさか忍者?)たちの火矢攻撃は論外。あれで山崎闇斎が死んだのかな。あの改暦研究所が会津藩邸にあったのか、あるいは幕府の土地だったのか知りませんが、そりゃ天下を揺るがす大騒ぎでしょう。覆面したのが抜刀、火矢をもっておおっぴらに襲撃とは。
※ 原作だと、研究所は会津の武家町のようです。実行不可能。
思い出した。算哲とえん、なんで祝言もあげずに同居を開始したんでしょう。再婚とはいえ、ごくささやかにでも祝言させてやればいいのに。この意味はわかりませんでした。
エンディング。江戸のえん(京に家があったという描写はなかったような)がなぜか京までこっそり旅してきて、高い舞台の上で抱き合うというのは、なんというか、まあ・・・。原作では「二本差しの武士が女連れで神社にお参りしているのを見て、周囲の町民たちが指さして呆れる・・・」というシーンがあります。こういう感覚の細部が冲方丁の小説のいい味だったんですけどね。
惜しい映画でした。
追記
原作の「天地明察」も、非常に斬新な解釈・描写と、「なんか変?」という素人くさい描写の両方が混在。それでも新鮮さの方が勝っている感じです。
新作の「光圀伝」が出ましたね。ネットで冒頭立ち読みしてみましたが、うーん、こっちはちょっと雰囲気が馴染まないなあ。「天地明察」の軽妙さがない。おそらく、たぶん、買わないと思います。