先日読んだ「罪人を召し出せ」。英国16世紀のトマス・クロムウェルのお話ですが、アン・ブーリン裁判に絡んで「彼は貴族だから拷問はできない」という記述がありました。どうしても拷問したい場合は王の許可状が必要なんだそうです。
したがって、たとえば宮廷楽士のマーク・スミートンの尋問。こちらは単なる庶民なので、やろうとすれば簡単に拷問可能です。だからスミートンはいろいろ自白しましたが「どうせ拷問されて苦し紛れに吐いたんだろう」とみんな思ったわけです。
しかしたとえばアンの兄(弟)、ジョージはロッチフォード子爵です。父親はアンのおかげとはいえ一応は伯爵になっている。とうぜん、彼を拷問することはできない。なんとなく納得はできるものの、でも、何故なんでしょう。
考えてみましたが、やっぱ、貴族連中はみんな仲間だったからでしょうかね。日本なら戦国大名かな。たまたま家康が天下をとったからといって、他の大名諸侯も格としては同列です。世が世なら彼が天下を制覇したかもしれない。徳川ン百万石も田舎の数万石領主も、たまたまの運不運の結果でしかなく、可能性としては同列同僚。そうした気分が「拷問すべきではない」という暗黙ルールになった。
ま、建前としては「貴族やジェントルマンは嘘をつかないはず」という考え方もあったかもしれません。要するに、魂を持ったまっとうな人間。庶民なんて嘘つきで高貴な魂なんてなかったんでしょね、きっと。
そういえば、幕末の土佐勤皇党、武市半平太の処分。まっさきに岡田以蔵がつかまって拷問にあって打ち首獄門となった。以蔵、もとは郷士という話もありますが、その後に足軽身分になったという記述もある。では足軽は武士なのかどうか。同じ下っぱでも中間小者はたんなる使用人ですが、足軽はいちおう武士です。
あるいは、幕吏に逮捕されたとき以蔵を土佐藩が「そんな家来はいない」とシラをきった経緯があったらしいですが、それで無宿者あつかいとなり、故に(なんか矛盾してますが)土佐藩が拷問することもも可能だったのか。論理がややこしい。
この見方を反対から眺めると、貴族や武士は有罪であろうとなかろうと「有罪である!」と言われたらもう最後。おとなしく従うしかない。日本なら切腹。英国なら斬首。従うのがいやなら抗命して戦うしかないですわな。ま、反逆して死ぬのは大罪ではあるものの、名誉は傷つかないみたいですから。
渡辺崋山だったか、たぶん鳥居耀蔵あたりの取り調べを受けて「恐れ入ったか!」と尋ねられる記述がなんかの本にありました。杉浦明平だったかな。
ようするに「はい。恐れ入りました」と返事をすると、罪を受け入れたことになるんですね。罪を受け入れたのなら、取り調べの奉行も「殊勝である。そんならコレコレの罪に処す」と命令できる。ところが被告人が「恐れ入らない!」と抵抗すると、非常に困る。
イヤだと抵抗する人間を制圧するには拷問しかないんだけど、他藩の上級武士である崋山を石責めするわけにはいかないんです。だからあくまで論理的、あるいは精神的に責めるしかない。あるいは、渡辺崋山の場合だったら所属の田原藩を脅かすしかない。脅された藩の老職たちが、本人を「これ以上抵抗すると藩の迷惑になる」と説得するしかない。
ま、たいていの場合はこれで解決するんですよね。周囲に迷惑をかけ続けてもいい!と意地を通して頑張り続ける人はあまりいない。
「罪人を召し出せ」でも、みんな家族のことを考えて最後は諦めてます。「自分は無実だ」「証拠はない」「でも無実を主張しても通らない」「抵抗して死ぬと妻子が路頭に迷う」「自分が犠牲になるかわりに所領は子供に継がせてほしい」・・・。だいたいこんな道筋。
ただしアン・ブーリンがなぜ罪を受け入れたか、それは不明。首を斬られるまえに無実を訴える感動的な演説をしたとされる説もありますが、「罪人を召し出せ」作者のヒラリー・マンテルは否定的なようです。だいたいアン・ブーリンに関しては分からないことが多すぎる。残った文書のほとんどは矛盾していたり飛躍があったりで、たいてい信用できない。
定説が信用できないという意味では、極めつけの悪人とされるリチャード3世の無実を証明した小説、ジョセフィン・テイの「時の娘」が有名ですね。そのリチャード3世をボズワースの戦いで殺したのがヘンリー・テューダー。つまり後のヘンリー7世で、今回のヘンリー8世の父親。ただし「時の娘」ではリチャード3世の醜い体型についても疑問を提していたような気がしますが、去年教会跡地で発掘されたリチャード3世の背骨は湾曲していたという報道がありました。誇張はあったもののシェークスピアの描写はあながち嘘ではなかった。