池澤夏樹が秋吉輝雄という比較宗教学者に教えてもらうという形になっています。旧約聖書の専門家らしいですね。
この二人は親戚で、親しい間柄です。ただ秋吉氏は啓蒙書を書かない人らしいので、どっちかというと池澤が秋吉氏の深い知識を世間に紹介してあげようという意図があったみたいです。
で、本書。タイトルの雰囲気とは違って、非常にまっとうというか、かなり専門的につっこんだ内容です。ある程度聖書について予備知識がないと、辛いかな。「素人なんで・・」と言ってる池澤がえらい知識持ってるから、そこのレベルを出発点にして話が始まる。書かれていることをすべて理解するのは至難です。
とかなんとか弁解はともかく、面白い本でした。
個人的に目からウロコが落ちたのは
・古代ヘブライ語には「時制」がなかった。
・古代ヘブライ語では「母音」を記さない。
これは実に面白い話です。時制がないということは、概念として過去も未来もない。すべて現在。大昔に誰が何をした結果として何があった・・ではなく、いま現在もそれがある。時間軸ではなく、並列というか、いまもあちこちに同時代的に展開している。。うーん、うまく説明できない。何言ってんだ?という人は本を読んでみてください。
で、そういう古代ヘブライ語の聖書を地中海文化圏の共通語であるギリシャ語に翻訳するとき、どうしても修正というか、時系列の観点が挿入され、訳者がある程度編集する必要がある。またヘレニズム的な観点からすると、矛盾するような事例がいっぱいあっちゃ困るんで、整合性をとる必要がある。片方を採用すると片方を捨てる。こうしてギリシャ語翻訳の時点で、内容は非常に変化してしまった。
逆に言うと、そもそもの聖書は矛盾だらけのゴタゴタだったということですね(たとえば雅歌なんて何故入れてあるんだ)。でも「矛盾はおかしい」と考えないのが古代ヘブライ語文化。すべて侵すべからざる神の言葉と事例ということなんで、たかが人間が勝手に編集しちゃおこがましい。
それじゃ不便きわまると思いますが、聖書とかタルムードとか何でも書いてあるんで、その時々で都合のよい部分だけピックアップして指針とするぶんには問題ない。そういう柔軟性があるからユダヤ人も現代に生きていけるわけです。都合のいいところだけ抜き出すのは問題ない。ただし原典を修正することは不可。面白い文化ですね。
母音を記さないんだそうです。要するに「KB」が「カバ」でもいいし「クボ」でもいい。それじゃ読み方がバラバラになって困るんで、「記述された文字」ではなく「読み」が重要になる。そのテキストをどう読むかはひたすら伝承。最初から最後まで必死になって声に出して読みます。頭を振りながら必死に詠唱しているシーン、映像でときどき見かけますね。
また「時制がない」ことも関連してか、長い聖書の中から特定の章を抜き出して珍重はしない。カード化しない。あくまで最初から最後まで通して読む。トータルでひとつの「聖なる書」になる。
他にも目ウロコはたくさんありました。前から感じていた旧約聖書の訳のわからない箇所やその理由が解明。はい。いい本を読むことができました。