★★★ 文藝春秋
上下二冊。前から図書館の本棚に並んでいるのは知っていましたが、高島俊男さんが「お言葉ですが...別巻6」で評価していたのでふと読んで見る気になりました。
前半は文革篇。地方都市の血のつながらない兄弟が主人公です。県の中心となる程度の大きな町なんでしょうね。中国の県は日本の郡くらいと思います。その町も文革の狂騒にまきこまれ、父親は三角帽子をかぶせられて撲殺死。このへんのドタバタは莫言のそれに類似しています。というより、悲惨な文革期を描こうとしたら、こうした喜劇調にするしかないんでしょう。
莫言の小説と非常に似ているんですが、やはり違う。何が違うのだろうと考えてみると、まず「兄弟」では自然が登場しない。莫言の場合、自然描写が濃密で、ほとんどひとつのテーマのような印象を与えます。湿気と寒さと熱暑。べらぼうな存在感をもつ樹木や家屋や動物。自然がねっとりとまつわりつく。しかし余華の場合はあくまで主役は人間で、自然にはあまり興味がない。
もうひとつは登場する人物たちがごく普通の村人だということ。例外として「福利工場14人の従業員」という連中も登場しますが、これは白雪姫の7人の小人のような脇役で、あくまで喜劇効果を盛り上げるための合唱隊的です。こういう表現、差し障りがあるのかもしれませんが、莫言の小説では青痣、足萎え、狂人、盲目・・・これでもかというくらい重要な登場人物で、これを身体障害者という言葉で簡単にくくるのはどうもピンときません。もっともっと差別的。でも村民たちは馬鹿にしたり苛めたりしながらも、ある程度折り合いをつけて共同体として生活している。60年前くらいの日本の田舎の感覚でしょうか。綺麗に言えば人間たちもまた「バリエーション豊かな自然」の一部です。
ちなみに莫言は11歳で文革を迎えています。もちろん学校にも行けない片田舎の貧農の息子(ただし出自は中農かな)。余華は医師の家だったようですね。たぶん杭州市で育って、文革時は6歳ですか。この本の主人公である兄弟と同じ年代です。
莫言と余華。同じようなトーンの小説に見えて決定的に違うのは、この年代と育ちの差にあるかもしれません。片方は嵐の中を必死に生きのび這い上がろうとする。片方は異様な光景を見聞きし、たぶん境遇も急変したでしょうが、まだ子供なので状況が完全には理解できていない。
で、小説の後半は開放経済篇です。実直な兄は町一番の美人と結婚し、野放図な弟は失恋して金儲けを目指す。兄は金属工場で働きますが、その工場が倒産。仕方なく肉体労働を始めたものの頑張りすぎて腰を痛め、あとは要領悪く転落の一途。最後は詐欺セールスマンとして国内を放浪します。
徹底的に楽天家の弟は廃品回収から身を起こし、日本製古着の輸入販売で一気にのし上がり、巨大なコングロマリットを築きあげます。美処女コンテストを開催したり、世話になった仲間を引き上げたり、独り暮らしをしている弟の(兄の)女房に手をだしたり(ま、初恋の相手だったわけで)、好き放題。
しかし巨万の富を手にし、純金の洋式便所に座って糞をひりだしながら、もう果たすべき夢もない。虚しい。そして最後に思いついたのは大金はたいてソ連の宇宙船ソユーズに乗せてもらい、青い地球を眺めること。そのためにロシア語を勉強し、肉体を鍛える日々。それしかない。
開放経済篇は非常にテンポよく、すらすらすらすら読み進みます。ま、笑劇ですからね。じっくり立ち止まって熟読するような内容ではありません。すたすら馬鹿馬鹿しく進行します。作者に言わせると「喜劇だけど悲劇を内蔵している」展開。対称的に前半の文革篇は「悲劇的展開ではあるが内部トーンは喜劇」だそうです。そんな趣旨のことを後書きで書いています。
まったく蛇足ですが、読みながら兄は鈴木亮平(たまに見る花子とアンの真面目な亭主役)、弟はキャスターのミヤネ屋をイメージしてしまいました。ごめんなさい。なんか似ている気がしたもんで。