関ヶ原も終わって徳川の威信はますます増大。というより天下はほとんど徳川ですね。ただ大名連中がどう見ていたのかは面白いところです。
いわばカリスマ先代会長が死んで、息子はまだ子供。先代の奥さんが(役付きではないけど)影響力を持ち続けている。で、実力副社長は取締役会で、叛旗をひるがえした常務一派を馘首。みーんなイエヤスさんが実質社長であることは承知だけど、でも先代の一族をないがしろにするのも気がひけるし・・・。
けっこう微妙なんだと思います。家康としても、あんまり評判悪いことはしたくない。自分に頭を下げてくれれば悪いようにしない気持ちはあるんだけど、肝心の先代の奥さんはプライドばっかり高くて世の中のことがわからない。困ったもんだ。
伊達政宗の立ち位置も微妙です。表立ってケンカはしたくない。でも唯々諾々と従っていたら軽んじられる。ちょいちょい文句をつけて、存在を見せつけておかないといけない。難しい。綱渡り軽業です。綱渡りが根っから好きだったんでしょうね。
そうそう、仙台城は山城だったのか。いわれてみれば、たしかに青葉山の上です。当時、すでに流行は平城で、不便な山城は少なくなっていたと思うんですが、政宗はあえて堅固な城砦にこだわった。本気で関東と戦うことを予想していたのかもしれない。Wikiによると息子の代は不便な山の上を嫌って、平地に二の丸を作ったらしい。したがって江戸時代の仙台城は平山城という分類になるそうです。
この回、政宗は何回も家康に面会しています。家康の傍にいつも柳生宗矩がいるのはちょっと違和感ですが、ま、許容範囲。本来なら本多正信とか正純といった老臣でしょうね。キャストを節約してるのかな。それでもケースバイケースで今井宗薫とか大久保長安とか、使い分けはしている。金田龍之介の大久保長安、タコ坊主みたいで好演。
ということで100万石をフイにした政宗は正室に挨拶して嫡男を抱き上げ、その後は側室の猫御前のご機嫌をとってこっちは江戸へ移す。そのまた後は秘密の愛妾のところへ行って、こっちの子供は国元へこっそり戻す。忙しいですが、タマゴをひとつのカゴに盛らない、自分の血筋を分散するってのは、大切なことです。
新年の挨拶、家康の伏見より先に秀頼の大阪へ行ったというのも、見せつけ要素もあったでしょうが、安全保障の意味があったのかもしれない。二股膏薬。場合によったら自分が盟主になって関東と戦ってもいい。、そんな可能性があったかもしれないです。