副題は「オオカミはこうしてイエローストーンに復活した」。
イエローストーン国立公園を作ったのは確かセオドア・ルーズベルトです。作ったというより、ルーズベルトが権力者として初めて自然保護区の構想を打ち出した。ま、単にアウトドアライフや狩猟が好きだったからだろうと思いますが。そのおかげで「開発をストップすることも大切なんだ」という発想が国民の間にも産まれたんでしょうね。
しかし鹿やバッファローをこよなく(たぶん)愛したルーズベルトも、オオカミは好きじゃなかった。邪悪な動物と思ってたんでしょう。大好きな鹿を殺すし。世界中、当時の大部分の人々はそれに賛同したはずです。どんな童話でもオオカミは悪役です。
で、ついに米国からオオカミは絶滅。やがてその弊害がだんだん出てきます。オオカミってのはその地域の捕食者の頂点として君臨する動物です。オオカミが鹿を食べる。鹿は木をかじる。木は木の実を落としてリスを繁殖させ、そのリスはナントカを食べ、ナントカはカントカを苛める。ま、連鎖です。実際はこんな単純なものじゃなく、たとえばオオカミがいないとコヨーテが喜ぶらしい。コヨーテは大型の鹿ではなく、もっと小さなウサギなんかを食べる。そのウサギは・・・。
オオカミがいない自然公園なんておかしい。ゆがんでいる。そう考える連中が米国にも増えてきたわけです。そうだ、象徴としてイエローストーンにオオカミを連れてきて繁殖させよう。うまいことにカナダにはまだオオカミがいたわけで、そこから群れ(パック)をいくつか誘拐して公園内に放せば自然に繁殖してくれるだろう。オオカミ誘致プロジェクト。もちろん当然ながらこの計画は猛烈な反対に会います。
まず牛を飼っている牧場主たち。これは当然ですね。オオカミに大切な牛を食われたらどうするんだ。見つけしだい射殺してもいいんだな。補償はどうする。それどころかもし人間の子供が襲われたらどうするんだ。
当時、すでにオオカミは絶滅危惧種です。つまり、うかつに射殺したら罪に問われかねない。絶滅危惧種の指定はオオカミ派に好都合のようでいて、逆に手足を縛る法律でもあります。反対派からすると、もしカナダから危惧種のオオカミの群が勝手に引越ししてくるような事態になったら非常に困る。どんな悪さをされても手が出せない。最悪です。それよりも最初から法律をつくって「観察実験」として公園内に放すのはどうですか。それなら農地を襲うオオカミを処置することも可能だし、補償金の制度もつくれます。あの手この手。
著者たちは気長に粘り強く運動を続けます。地元の政治家を説得、お役所、地元民との話し合い、ワシントンでのロビー活動。場合によっては仲間のはずの保護活動団体も敵にまわります。手法をめぐっての対立ですね。理想的にいくか、現実的に妥協するか、こうした瑣末なことでも運動は破綻します。
ま、そうやって何十年もかけ、ようやく運動は成功。ヘリで追い回して上空から麻酔銃を撃ち、カナダからオオカミを空輸してついに公園内に放した。この本、オオカミそのものの話は1割もなくて、あとはすべて、誰を説得し、誰が農場主と集会を開き、誰が妨害し、誰が味方になった・・・という経過のお話です。面白いけど、かなり地味なストーリーの連続です。
たとえば日本でもシカが増えすぎて困っています。シカを間引きするとか、無理だとか。本当の解決策は大昔のようにオオカミを回復させればいい。日本オオカミがいないのならモンゴルオオカミでもなんでもいい。そうすればたぶんシカの爆発的繁殖は止まります。ただし、農家の家畜が襲われるかもしれない。キノコ採りにいった婆さんが怪我するかもしれない。
もし復活プロジェクトを推進させようとしたらえらいオオゴトですね。林野庁、厚労省、環境庁、文科省、保健所、県、市町村、地元農家、観光客。すべてに関係する。省庁のテリトリーもからんで大騒ぎになる。
オオカミ復活なんて英断、いまの日本ではまず無理でしょうね。実際、知床半島ではそんなアイディアが出たこともあるらしいけど、もちろん一顧だにされていなようです。
そもそも、人間という大ボスがやたらはびこっているのが最大の問題ですね。人間がいなくなればやがては一定の自然平衡状態になるかもしれないけど、だからといってそれが「そもそもの自然」ではない。だいたい地球上に「そもそもの自然」なんてあったのかしら。