蕎麦の盛り

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大昔、家族で浅草からぶらぶら歩いて並木藪蕎麦に入ったことがあります。大通りに面した、こじんまりした店でした。頼んだのはたしかザルだったと思いますが、いくらだったかな。たぶん1200円くらい。ま、高いけれども仕方ないか。(注)

量は非常に少ないです。上品な量というレベルではなく、上品の更に半分程度。2枚食べてようやく「軽く食べた」という感じになる。で、あらかじめ「大盛り」を頼んだら拒否された。2枚盛りもダメ。いったん食べ終えてから再度注文してくれ。

これは理不尽でしたね。ここのツユは非常に濃厚で、べらぼうに味がいい。ツユが命です。それがまだたっぷり入っている。サラっと蕎麦一枚食べたってまだたっぷり残っている状態。もって帰りたいくらい。だから新規に再注文じゃなく、蕎麦だけお代わりできればもう十分です。ツユを新しく換えるなんてもったいない。かなり心外だった記憶があります。

漱石の「猫」で迷亭が昼時に訪ねてきて、いや昼食の心配はしてくれるな、途中の蕎麦屋で頼んできたから。そういうシーンがある。迷亭、たしか3枚くらい注文してきたような記憶があるけどうーんと調べ直したらたったの「蒸籠二つ」だった。意外に少ない。ここで迷亭が蕎麦講釈をたれるんですよね。

それはともかく。その後に何かで「そもそも蕎麦ってのは軽くお腹をみたすものであって、これで満腹しようなんてのは江戸っ子じゃない」とかいう主旨の一文を読みました。ふーん、そうなの。なんでですかね。

というのが前置きで、実は先日、テレビ東京の「和風総本家」の蕎麦特集を見ました。これ、かなりお薦めの番組ですよ。テーマによって外れもありますが、だいたいは面白い。時間つなぎに柴犬の幼犬が何故か風呂敷背負って走り回ってる番組です。この柴犬、数カ月ごとに代替わりしていて、たぶんもう20代くらいは繋がっているんじゃないかな。

で、ようするにこの蕎麦特集で真実があきらかになった。なぜ蕎麦は盛りが少ないのか。実は粋とか通とかの問題ではなく、単純に「儲け確保」のためだった。そもそも最初から二八の蕎麦というんで有名になって、当然のことながらニハチ十六で十六文。「お代はいくらだい」「野暮なこと聞きますね。二八は十六文にきまってます」と言いたいばっかりにお代十六文を据え置いた。でもそのうち諸色高騰。だからといって十八文にできるか。二十二文なんて死んでも言えるか。仕方ないから盛りの量を減らせ。

ま、そういうわけで蕎麦は上品な盛りが常識になった。上品であればあるほど、いい材料を使って精をこめてつくった証となる。非常に納得です。

そうそう。並木藪蕎麦は改築か代替わりでもあったんでしょうか。念のために調べてみたら「ざるそば750円」でした。なんか記憶と違う。やす過ぎる。おまけに「そばつゆがガラリと変わった」なんて書き込みもある。方針が変わったのかな。もし変更になっていたらごめんなさい。

関係ないけど松山中学に赴任した坊ちゃんは「天麩羅を四杯」平らげています。大食いではあったんでしょうが、けっして食べられない量ではなかった。

重大な追記
家人のメモによると、たぶん2002年頃。並木で2600円という記録があった。端数を考えると4人前(私がおそらく2枚)なんでしょうね。すると一人前が650円ですか。決して高くはない。

うーん、不思議だ。記憶のゴマカシ。どこで「高い!」ということになったんだろう。量の少なさ=高い!という錯覚だろうか。2人前1300円を一人前と記憶した? いずれにしても並木藪蕎麦さん、ごめんなさい。