文藝春秋★★★
たとえば夏目漱石の若い頃、どこであれほどの学力を身につけたのか‥と調べてみると、たちまち迷路に迷い込みます。次から次へと有象無象、いろんな学校というか塾というか、出たり入ったりしていて、そのうち天下の学士様になってロンドンへ行っている。いつ英語を身につけたんだろ。
ま、そういう時代であり、そこをくぐり抜けてきた人間の才能・努力が桁外れだったわけでしょう。
漱石より少し前(※)の万延元年に生まれて、明治9年に東京開成学校(※)に入学。入学時は数十人だったもののその後の変遷6年を支障なく通過し、明治15年に東京大学(※)を文学士として卒業できたのは27人しかいなかったそうです。全国でたった27人。この中に山田一郎という奇人がいた。
この連中、もちろん全国から選り抜かれたピカイチの秀才です。日本には学ぶに値するものがないから基本的にずーっと英語で勉強した。英語で聞き、英語で読み、英語で考え、英語で書く(※)。もちろんピカイチだから、ふつうの教養である漢文もスラスラ書けるし読めるが、それでも日本語は英語ほど上手じゃないという人が多かったらしい。
どんな連中だったか。このへんの事情は坪内逍遥の「当世書生気質」を読むとわかる。逍遥の卒業は、この万延元年組よりちょっと遅かったらしいです。だから山田一郎とは直接かかわりません、たぶん。
大隈重信のフトコロ刀といわれた小野梓という人がいて、この小野梓のまたさらに子分が同級にいたため、万延元年組の学生は大隈となにかとつきあいが生まれた。ところが明治14年の政変で大隈が官を追われ、その後の国会開設運動とか改進党の結成、専門学校設立(早稲田大学です)とか、いろいろあって、要するに政府が官吏養成のつもりで送り出した卒業生が、かなりの比率で反政府運動(ま、ですわな)に身を投じた。
で、この新規誕生の文学士たち、当座は政府のいうこともきかず好き勝手やってましたが、なにしろみんなピカイチだから諸分野で頭角をあらわす。頭角というより、その分野のリーダーになってしまう。たいてい20代の後半あたりで才能がキラメキだす。
ところが一人だけ、あんまりキラメかなかったオトコがいた。これが山田一郎。だいたいクセのある人だったらしく、素直じゃない。やけに韜晦する。おそらく几帳面な人なのに、思い切って豪傑ぶる。たとえば衆院選に出馬したのに、妙にイジイジして自分を宣伝しない。出馬しているのかどうかさえ明確にしない。「ぜひ一票を!」と言えない人なんでしょうね。結果はなんと97票。
よせばいいに東京を離れて、地方に逃げてしまった。天下の秀才、学士様。地方でももちろんチヤホヤされるけど、ただそれだけで未来がない。ボヤボヤしていて機会を失ってしまった。
こうして、天下の文学士なのに何にもなれないオトコが誕生した。地方新聞社に入ったりもしたけど、長くは続かない。地の才能はあるんで、その後はやたら記事を書きなぐっては地方に送って生活。元祖フリージャーナリストです。大酒のんで大貧乏みたいなことを言ってたけど、たぶん金はそこそこ持っていた。ほんとは潔癖で、朝起きると洗面うがいナニナニ‥と、たっぷり2時間かけたとか。風呂にはいると指を一本々々ていねいに洗いはじめるんで周囲が迷惑したとか。
ボロをみかねてプレゼントされた高級着物は何枚もあったのに、なぜかいつも汚い格好ですごす。1日1食、ただし時間かけてゆっくり酒を飲んでからやたら食う。高価でうまいものをたっぷり食う。演説始めると何時間でもしゃべる。グチグチイジイジしゃべる。原稿もダラダラダラダラ、いくらでも書ける。不器用だったのか、不器用を気取っていたのか。
友人たちは「天下之記者」と呼んだそうです。他に言いようがなかったのかもしれない。そんなオトコが大昔にいた。
※漱石は慶応三年ですから、万延元年というと5~6年前ですね。
※東京開成学校 → 明治初期、こういう名称の学校があったわけです。もちろん開成高校とはまったく無関係
※東京大学 → 帝国大学とか東京帝国大学とも違います。このころは「東京大学」という名称だった。コロコロ変わった
※英語 →だから英語が得意ではない正岡子規は「劣等生」だった
※早稲田大学 →早稲田創設に貢献した三傑とか四傑とか称した場合、山田もいちおう数人の中の一人に勘定されるらしい