新潮社★★★
やたらある関ケ原本ですが、わりあい専門書ふうの内容です。そんなに読みやすくもない。ザッとですが原文資料も掲載している。
では従来の関ケ原解釈とどこが違っているのか。以下、読み終えてからの記憶なのでかなり不確かですが
■ 小山会議で「石田三成と戦う」ことに賛同してくれた豊臣恩顧の大名たち。しかし秀頼さまに逆らう気は毛頭なかった。この時点ではあくまで三成と家康の戦いと認識。
■ やがて大坂の奉行たちが秀頼の名で家康打倒を発令。つまり大名たちが清洲城に集結の時点では、小山会議の時とは状況がまったく違ってしまった。
■ ゆえに家康は清洲城の豊臣恩顧の連中を信用できない。危なくて江戸から発進なんてできない。江戸城にいれば比較的安心と考える。
■ しかし清洲連中への牽制使者が効きすぎて、福島たちが激昂。予想外の強さを発揮して岐阜城をあっさり攻略(城主は元の三法師=織田秀信)。「家康なんて不要」の雰囲気になってしまった。これは最悪。
■ 仕方なく、予定外ながら家康は西へ進軍。それもコソコソと出立した。(察知されると対応して、大坂城から秀頼帯同で毛利が出てくる可能性あり)。もし秀頼が出てきたら清洲城の連中は一挙に裏切りの可能性。
■ 東海道の家康、中山道の秀忠。どちらも軍勢は三万程度だが、中身はまったく違う。万石以上の「独立して戦える戦闘集団」はほとんどが中山道にまわされており、こちらが主力。家康麾下は雑魚集団だった。(本多忠勝などの名もあるが、立場は軍監であり、手勢はほとんどいなかった)
■ 秀忠軍の当初の目的は上田(真田昌幸)の制圧。それが終ってからゆっくり西上の予定だった。急ぐ理由はない。
■ しかし家康が予定外に西へ進軍したため、当初の予定を変更。しかしもうまにあわない。
■ 以上を総合すると、家康は非常に危なかった。濃霧もあり小早川がなかなか動かない。諸説あるが、秀秋へ鉄砲打ち掛け(裏切り催促)もあったとみる。ただし、かなり遠慮がちな催促だったようだ(誤射だった・・などと一応は謝罪の体裁をとっている)。
■ したがって関ケ原合戦の主役は豊臣恩顧の諸大名たちである。家康の貢献は実はあまりなかった。
■ そのため戦後処理でも、豊臣恩顧の諸大名たちは西国でたっぷり加増。けっして「西に追いやった」のではなく、日本の中心付近に置いたのである。西に・・は江戸中心の偏った観点。(※)
■ また家康の名前で加増したわけでもない。ほとんどは書状のない口頭での伝達。異例。つまり「秀頼さまの命令」というふくみをもっている。まだ家康がおおっぴらに専断できる状況ではなかったのだ。
などなど。面白かったですが、かなり自信をもって断定のめだつ一冊でした。(※)
※著者の経歴みたら京大でした。やっぱり。