筑摩書房★★
永井荷風のこと、なーんにも知らないです。四畳半襖の下張り騒動とか、浅草のロック座の踊り子たちを愛したこととか。ベレーかぶってコウモリ傘持った写真もたぶん見たことかある。その程度。
といわけでよく知らない荷風のことを、半藤一利が例の講談座談ふうに解説。ま、サーッと読んで納得するような本です。
読了。なるほど。荷風がいつも肌身離さなかった手提げ袋、やはり通帳やらなんやら、全財産がはいっていたんですね。それを置き忘れたことがあったらしい。拾ったやつが中を見たら現金はほとんどないんで、チェッと舌打ちして捨てた。捨てたのを若い米兵がひろった。
落とし主は有名な小説家で、通帳の額も二千万円だったかな。米兵は、たっぷり謝礼がもらえるだろうと期待していたらしい。で、荷風さんは失くすとすぐ銀行に届けを出していた。まったく心配していなかった。そういう人らしいです。かなり合理主義者。
それなのに(大嫌いな)警察から呼び出しをくらい、立ち会った米兵から手提げ袋を手渡され、謝礼(五千円)も払う羽目になった。たぶん、あんまり気分はよくなかったんでしょうが、でもそうしたセレモニーをいちおう尊重するのも荷風だった。
いろいろエピソードがあります。総じてつきあいにくい人ですね。ヘンクツ。わがまま。戦後すぐ市川で従兄弟の杵屋五叟の家に住むんですが、あいにくラジオの音と三味線が大嫌いだった。うるさくて書けないぞ・・と怒る(※)。向こうの部屋で三味線が始まると火箸を木魚みたいにカンカン叩いて無言(有音)の抗議をする。先方さんも閉口する。ときどきは靴はいたまま家の中を歩く。同居している夫婦の寝室の障子には、いつも小さく穴があいている。ふさいでも、また穴ができている。
そうそう。関西のどこか、知人宅に疎開していたときは、入浴するにも全財産の入った袋を風呂場にもちこむのが常だった。「この家の人間も信用しないんだ・・」と呆れられた。
ま、そいう人だったらしい。
意外だったこと。顔が長くて、若いころはそこそこ美男子だったのかな、とは思っていましたが、実は身長180センチ。足は27センチだったか。大男。合う靴がなかなか買えないのでゲタを履いていた。人間、こうした身長とか体重とかで、あるていどイメージがつくれます。そうか、良家に育って渡仏して、江戸文学を愛して高名作家で女が大好き。で、戦後も人気があって全集も出版。金はザクザクはいってきたが、屈託して生きて、毎日浅草に通った。
権威が嫌い。しかし抵抗はしない。文化勲章も文句いわず嬉しそうな挨拶もする。でももらった勲章はたぶんそのへに放り投げてある。浅草のストリッパーたちとよく遊んだしご馳走もしてやった。でも自分から誘った踊り子以外の払いは拒否する(※)。不動の一線があったんでしょうね。うるさい、ガンコなケチ爺。文化勲章のあとも「へぇー、センセ、天皇陛下にあったのぉ」などと踊り子に言われると不機嫌になる。なんにも予備知識のないストリッパーが好き。
当然ながら、同時代の作家からの評判もいろいろ。ま、荷風のほうだってたとえば初めて会った小林秀雄を「小林愛雄」と間違って(たぶん故意)記していたり。
いろいろ、めんどうな人だった。
※実はこの当時、ほとんど書いてなんかいない。気がおきなかったんでしょうね。杵屋に居候して三味線嫌いは通らない。
※そっちから押しかけて来たんだから、自分の分は自分で払いなさい。